人新世の「資本論」―― 世界で最も裕福な資本家26人は、世界人口の約半分の総資産と同額の富を独占している

マーケティングに関わる仕事を20年続けています。マーケティングでは、永い間「人々の生活をより豊かにする」ことを考え、実行してきました。しかし、昨今では人々の豊かさと同等に、世界や地球全体に関わる課題の解決を目指す必要を感じています。つまり、人も環境も良い状態で持続可能(サスティナブル)であることが求められています。

それまでは、人々の欲求(ウォンツ)に耳を傾け、気を配りながら商品開発やプロモーションのお手伝いをしてきましたが、それに加えて、社会課題への目配せ、配慮を行うようになりました。よりパーソナルなウォンツの理解を追求してきましたが、今は全人類で自分事として語るべき「時代のナラティブ」は何なのかを考えています。その大きな道標が、国連で定めた「SDGs(持続可能な開発目標)」だと思って理解を深めてきました。

しかし、この本『人新世の「資本論」』では、そのSDGsを「現代版大衆のアヘンだ」と言いのけます。時代のナラティブへの理解を深めるために、その背景と、そこで大きなリファレンスとされている経済思想「マルクス思想」を理解しておかないとと感じ、少し時間を割いて、このブログでまとめておきます。

本書に関するブログは「人新世の「資本論」」のタグでまとめています。
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人新世の「資本論」―― 人々のニーズはコモンズに、ウォンツを差別化する構造にできないか

世の中は、経済成長のための「構造改革」が繰り返されることによって、むしろ、ますます経済格差、貧困や緊縮が溢れるようになっている、と。実際、世界で最も裕福な資本家二六人は、貧困層三八億人(世界人口の約半分)の総資産と同額の富を独占している。これは偶然だろうか。いや、こう考えるべきではないか。 資本主義こそが希少性を生み出すシステム だという風に。私たちは、普通、資本主義が豊かさや潤沢さをもたらしてくれると考えているが、本当は、逆なのではないだろうか。

裕福な資本家の扱いこそ、本書が唱える「脱成長」の鍵になると考えています。現在の資本主義では、累進課税を採用しているとはいえ、資本家が得られる富には限りがありません。だから、常に成長するためのモチベーションが生まれてきます。この税金を、累進課税をより強くしてみたらどうでしょう。ある程度の富を得た資本家は、これ以上成長してもそこから得られる富はわずかになっていく。そうすることで、あるレベルからは成長のスピードを緩めるきっかけになる。もしくは、自分の富ではなく、世界の人々の富としてより税金を納めるための成長を目指す、清く美しい資本家だけが残る。こんな好循環が生まれないものかと、時おり想像します。

石炭は本源的な「閉鎖的技術」だったのである。その結果、水力という持続可能なエネルギーは脇に追いやられた。石炭が主力になって生産力は上昇したが、街の大気は汚染され、労働者たちは死ぬまで働かされるようになった。そして、これ以降、化石燃料の排出する二酸化炭素は増加の一途をたどっていったのである。囲い込み後の私的所有制は、この持続可能で、潤沢な人間と自然の関係性を破壊していった。それまで無償で利用できていた土地が、利用料(レント=地代)を支払わないと利用できないものとなってしまったのである。本源的蓄積は潤沢なコモンズを解体し、希少性を人工的に生み出したのである。

とても具体的で分かりやすい例です。誰もが使えるもの、ここでは「水」は平等であるがゆえに富を生みません。一方で、それを生み出し、使うためには資本が必要な「石炭」は、生み出すものと使うものの格差が生まれることによって、富を生みます。この構造を生んだのは資本主義だとよく分かりました。そしてその結果、元々は誰のものでもなかった、石炭を生む「土地」が私的所有されていく歴史には苦々しさを感じます。

要するに、「公富」と「私財」の違いは、「希少性」の有無である。「公富」は万人にとっての共有財なので、希少性とは無縁である。だが、「私財」の増大は希少性の増大なしには不可能である。ということは、多くの人々が必要としている「公富」を解体し、意図的に希少にすることで、「私財」は増えていく。つまり、希少性の増大が、「私財」を増やしてきたのである。

もともとは誰のものでもなかった「公富」であった土地は、「私財」化されて、そこで得られた資源は「希少性」を持ち始める。格差を生むこうした構造を改めて突きつけられると、コモンズという言葉が重く響いてきます。改めて、巻き戻してコモンズを増やしていくことと、その方法に興味が沸いてきます。

少なくとも日本では、水は潤沢である。また、生きていくためにあらゆる人が必要とする、「使用価値」が水にはある。だから本来誰のものでもなく、無償であるべきだ。ところが、水はすっかりペットボトルに入った商品として流通するようになった。商品である水は、貨幣で支払いをしないと利用できない希少財に転化しているのだ。水道事業でも同じことが起きている。水道が民営化されると、企業が利益を上げることが目的となるため、システム維持に最低限必要な分を超えて水道料金が値上げされるのである。

我々の生活に直結する問題だと、また深刻さが増してきます。水道事業の民営化に対して意識的な日本人はきっとそう多くはありません。生きていくうえで必要な水はコモンズであるべきだと思うし、その次は「空気だ」と言われても、その危機感も大げさではないと思えてきます。

マルクスが商品の根本的矛盾として展開しようとしたのは、まさにこの財産(riches)と富(wealth)の矛盾そのものだといっていい。マルクスの用語を使えば、「富」とは、「使用価値」のことである。「使用価値」とは、空気や水などがもつ、人々の欲求を満たす性質である。これは資本主義の成立よりもずっと前から存在している。それに対して、「財産」は貨幣で測られる。それは、商品の「価値」の合計である。「価値」は市場経済においてしか存在しない。

「財産」と「富」を、マーケティングの現場で使い分ける「ニーズ(必要なもの)」と「ウォンツ(欲しいもの)」で分けてみたくなります。現代のマーケティングでは、生活者のニーズは満たされているものとして、ウォンツを探るための調査を行い、それを満たす商品開発やコミュニケーションに取り組みます。ここでマーケティングというと嫌らしく聞こえてしまうかもしれないけど、このニーズとウォンツの違いは、もしかしたらコモンズと私財を分けるヒントになるかもしれないと思いはじめました。

人々のニーズはコモンズに返し、ウォンツを満たすものこそ努力の上で生み出して、平等で豊かな社会が創れないかと。そんな視点を持ちつつ、引き続き読み進め、考えてみます : )

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