2010年代のポップカルチャーのメインストリームや、そこで起きた変化を解説する本「2010s」。1周目でチェックした部分を中心に、2周目を読み進めながら感想を記録していきます。
2010sの第5章は「2010年代の映画界は、マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)のディケイドだった。少なくともハリウッド映画に関したら、そう言いきることが可能です。」という宇野維正さんの宣言で幕を開けます。2019年に公開された「アベンジャーズ/エンドゲーム」の世界興収が、2010年代最後の年に2009年の「アバター」を越えたこともその背景です。
2010年代のポップカルチャーと距離があったボクは、そんなMCU:アベンジャーズシリーズを観ないまま2010年代最後の年を迎えましたが、この2010sと著者の田中宗一郎(タナソー)さんがホストをつとめるポッドキャスト「POP LIFE:The Podcast」の影響で、2019年の年末から2020年のはじめにかけてアベンジャーズシリーズ計23作品を一気に観終えました。
- アベンジャーズ~フェイズ1のテーマは、兵器とテロと格差社会と大災害。
- アベンジャーズ~フェイズ2のテーマは、見えざる脅威とシンギュラリティとの戦い。
- アベンジャーズ~フェイズ3(前半)のテーマは、孤立か連帯か、監視か委譲か、全体か個人かの選択と。未来と脅威とアクティビストの想いとの折り合いのつけ方。
- MCU:アベンジャーズで2010年代を振り返る~フェイズ3(後半)のテーマは、気候変動と社会活動家と今やるんだということ。加えてコロナウイルス
背景にある社会課題を意識して観よう。と決めて、ボクなりに感じることがたくさんあったアベンジャーズシリーズです。タナソーさんと宇野さんのお二人の視点、視座からのオピニオンをぜひ聞いてみたく、2010sの中でも一番楽しみに読んだチャプターかもしれません。
前回までこのブログでまとめたタナソーさんと宇野さんの会話では、「もし気候変動というイシューが時代のナラティブになれば、すっかり分断されてしまったこの時代をひとつにユナイトする可能性を秘めているかもしれない」というタナソーさんの希望に対して、「ただ実際、どうなんですかね。タナソーさんの考えるようにはとてもなりそうにない気がしますが」という宇野さんのレスポンスがありました。そのリアルな反応に対し、タナソーさんはやはり「難しい気もする。」というリアルな回答を重ねるところから、レビューを続けます。
サノスのスナップは、リーマンショックのメタファーであり、ナターシャは大切なものを奪われて、度を越してファナティックになってしまった人たちのメタファーである。
田中 難しい気もする。例えば、さっき話してた「エンドゲーム」のシーンにしても、キャプテン・マーベルやキャプテン・アメリカが、もう少し広い視点を持ってグローバル・イシューに向き合っている立場を表象しているとすれば、誰よりもボロボロになったナターシャは気候変動みたいな問題に目を向ける余裕のない疲れ切った人物のメタファーだと思うんですよ。ブラック・ウィドウは自分自身の目の前にあるローカル・イシューの解決に懸命になるあまり、それが見えなくなっている―――あのシーンはその対比以外のなにものでもない。
気候変動に対して、ボクはそれほどまでに過剰な想いではないけれど、それが「時代のナラティブ」であれば良いことであるという立場です。少なからず、仕事であるマーケティングの現場でその想いを表明し、なるべく多くの人たちに伝え、できれば賛同して欲しいと行動しています。でも、ここで説明されるナターシャの背景を鑑みると時代のナラティブとして気候変動が扱われることを、タナソーさんと同様に「難しい気がする」と思ってしまいます。
きっと世界には自分の身の回りのローカル・イシューに解決すべき問題がたくさんありすぎる人が多すぎる。大きすぎて漠然としてしまい自分事(=ナラティブ)として捉えずらい問題を伝えるときに、ボクは「自分の子どもやその子ども、未来の子孫のことを想像してみよう」と話します。が、そんなイマジネーションを巡らせる余裕がある人たちが少なすぎる。決して自分にそれができているわけではないけれど、そいう状況がリアルであることを思い知らされて悲しさと、受け取る側の状況を理解できていなかったことへの反省の気持ちが込み上げてきます。
そして、宇野さんは「彼女は何で見えなくなってたんだろう?」とタナソーさんに問いかけます。
田中 残酷な言い方をするとエゴイズム。彼女はアベンジャーズという自分の家族を失ってしまったことに対する悲しみと後悔、そして、何としてもそれを取り戻さなくてはならないという焦りのために、自分とは違う立場の人間に対する共感能力をすっかり失ってしまっている。2008年のリーマンショック以降、全世界的に先進諸国における中流階級の底が抜けたわけでしょう。そこで格差が一気に広がった。でも、それは同時に、かつて第三世界と呼ばれた発展途上国の人々の飢餓や貧困を底上げすることにも繋がったわけじゃなですか。つまり、先進諸国が植民地時代からの長年のツケを払った結果でもあるわけだよね。言ってみれば、それってグローバリゼーションがもたらした平等とも言えなくもない。
宇野 つまり、サノスのスナップは、リーマンショックのメタファーでもある?
田中 そう読むことも可能だよね。2010年代というのは、富や機会を奪われた持たざる者が牙をむき、平等と全体性を獲得しようとする力学が階級闘争へと歪められてしまった時代でもある。だからこそ、ここでのナターシャは、このディケイドで大切なものを奪われたり、大切な家族が危機に瀕していて、それを取り戻さなければならないと懸命になって、気がつけば度を越してファナティックになってしまった人たちのメタファーなんじゃないか。
共感能力とファナティックという言葉に注目してみます。世界のことや未来のことを自分のナラティブとして捉えるには共感する力が必要です。そして、自分の身の回りのことにファナティック(熱狂的)になってしまっている人は、きっと身近な領域の外にあることに共感を伸ばしていくゆとりがないのだと思います。ボクはマーケティングで「聞く力」を学びました。聞く力とは「あるがままに全てを受け入れる」「なってみる」「相手から自分を見る」という行動を通して育まれます。リーマンショックの後、富や機会を奪われて、自分の身の回りのことで精一杯になってしまっている人たちに「聞く力」の大切さを訴えてみたいと思います。
アベンジャーズでは、こうしたファナティックになっている人たちを「批判的に肯定しようとしている」とタナソーさんは救いの手を差し伸べます。「決して、非難したり、断罪しようとしてるわけじゃない。エンドゲームが格差社会についての映画だと思う理由はそこにある。」と。なってみる。相手から自分を見る。そういう聞く力が救済の力になると、そう考えてみたくなります。
時代のナラティブとして取り扱うべきテーマから、それをなるべく多くの人たちに共感してもらうための聞く力まで。また明日から取り組んでいきたい気付きを得ることができました。だいぶゆっくりと、永くなってきましたが、2010sの改めての読解を続けていきます : )
コメント - comments -