ゴジラ-1.0 —— 謝罪して次へ進め!

映画「ゴジラ-1.0」を観ました。劇場はTOHOシネマズ有楽町のIMAXレーザーシアターです。ゴジラ映画をちゃんと観たのは庵野秀明監督作品「シン・ゴジラ」に続いて2作目です。怪獣映画にはそれほどロイヤリティを感じてはいませんが、反戦・反核のメッセージが強く、シリアスな展開が続く本作はとても興味深く観ることができました。

VUCAな環境が続く2020年代、このタイミングで公開される意味がある作品でもあると思います。その感想を、作品の背景・ストーリー・撮影と編集の視点で整理しておきます。

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ゴジラ-1.0 —— 作品の背景について

ロシアのウクライナ侵攻に続き、イスラエルとパレスチナの中東問題が噴出しました。複数の戦争が常態化する世界になってしまいました。戦争によって起きる苦しみは世界中の人が知っていたはずです。なぜ再び起きてしまうのでしょうか。戦争によって積み上げてきたものが「0(ゼロ)」になる。もっというと戦後に生き残った人たちの恨み・復讐によって「-1.0」にさえなってしまう。そのことのメタファーとして、今観ておくべき作品になったと思います。

そして、主人公「敷島」のふるまいと決断について、個人的な状況も重ねて共感しました。過去に大きな2つの後悔(それは決して過ちではないとボクは想うのだけれど)を持つ敷島は、その後悔に苛まされつつも、最後に過去に謝罪をして、方向転換をして、次に進むことを決断しました。後悔があれば、それに対して謝罪でも何でもして、方向転換をして次に進む。そんなふるまいが必要な時代です。過ちを繰り返してしまっている国・人が世界にはいます。もう謝罪して方向転換してしまいませんか?そうでないと世界は「0」に向かい、固執するほど「-1.0」へと陥ってしまいます。少なくとも、ボクはピポットしようと思います。そんなことを許してくれる作品でもあります。

ゴジラ-1.0 —— 作品のストーリーについて

第二次世界大戦末期、零戦パイロットで特攻隊に任命された敷島は2つの後悔を残すことになります。ひとつは特攻の任務を放棄し、機体の故障だと偽って機体整備のための島へ逃げ帰ったこと。そしてその島でゴジラと遭遇し、ゴジラを目の前にして機銃を発射することができず、島にいた整備員の多くを死なせてしまったこと。しかし、その行動によって敷島は終戦を迎え生きて故郷の東京に帰ることができました。

生きて帰った東京では、それを望んでいた両親は空襲によって亡くなっており、また特攻にも関わらず生きて帰ってきたことを近所に住む「澄子」に責められることになります。「0」で帰ってきた敷島が「-1.0」へと落ちていく過程になります。それでもボロボロとなった東京での生活を再開する敷島は、ある日の街角で幼い赤ちゃんを抱えた「典子」と遭遇します。何者かに追われる典子は抱いていた赤ちゃんを敷島に託します。そんな出会いがきっかけで、敷島と典子と幼い明子の共同生活がはじまります。

典子・明子との共同生活の生計を立てるために、敷島は危険な機雷掃海の仕事につきます。そこでは、戦争を生き延びた「秋津」、元技術士官の「野田」、戦争に参加できなかったことを残念がる「水島」と出会い、掃海の仕事を進めていきます。新たな日常が新常態となったころ、米国の核実験により巨大化したゴジラが活動をはじめます。日本列島へと向かうゴジラを足止めするために、敷島・秋津・野田・水島が乗る「新生丸」も駆り出されます。十分な装備がないままゴジラと対峙する新生丸は、掃海作業で回収した機雷を武器としてゴジラと戦います。敷島や野田の機転でゴジラの口内で機雷を爆発させることに成功しますが、ゴジラの再生能力によって会心の攻撃も無へと帰してしまいます。

日本列島へ上陸したゴジラは銀座の街を破壊し、銀座に勤めに出ていた典子もゴジラの放射熱線の余波に巻き込まれてしまいました。典子を失い、不条理な破壊に大きな怒りを感じるとともに、過去に起こした2つの後悔による呪いにも悩まされる敷島は、やがてゴジラに特攻し、怒りと後悔を回収することを心に決めるようになります。

同時に、米軍に見放され、日本政府は対策に動けずにいる状況を見兼ね、民間によるゴジラ掃討作戦が計画されていました。作戦担当を務めるのは野田です。敷島は野田が考案した作戦「わだつみ作戦」に協力をする代わりとして、戦闘機を用意すること、そしてその戦闘機で敷島がゴジラの誘導役となることを約束させます。約束通り戦闘機「震雷」を手に入れた敷島は、かつてともにゴジラと遭遇した整備員の「橘」を探し、震雷を修理を依頼するとともに、ゴジラに特攻するための装備を震雷に秘密裏に搭載することを依頼します。かつて特攻から逃げたこと、ゴジラとの対峙から逃げたことを責めた橘はそれを了承します。

ゴジラとの決戦が迫ります。幾多の想定外を乗り越えながら、野田たちはわだつみ作戦を遂行します。作戦によりゴジラに大きなダメージを与えますが、それでもゴジラの強力な再生能力によって止めを指すことはできません。ゴジラが再び放射熱線の放出をはじめようとした時、敷島はゴジラの口内に特攻を仕掛けます。ゴジラに飛び込み、震雷に詰んだ大量の爆弾が破裂すると、ゴジラは崩壊をはじめました。ゴジラの脅威を取り去った瞬間です。さらに、崩壊するゴジラの体から漏れる放射熱線が飛び交う空を見上げると、敷島がパラシュートで降下してくる姿が見えました。

整備員の橘は、かつての日本軍の零戦には搭載することがなかった脱出機能を震雷に施していました。そして敷島に「生きろ」と言いました。敷島も特攻で死ぬことではなく、生きて謝罪して、方向転換して次に進むことを決めました。戦争の呪いによって、戦争を終わらせることができなかった2人のピポットによって、戦争もゴジラの脅威も終わらせることができました。

東京に凱旋すると、明子を連れた澄子が敷島に駆け寄ってきます。澄子は典子が生きていたことを伝えました。典子がいる病院に向かう敷島。2人は再開し、明子とともに3人で生きていくことを決意しました。

ゴジラ-1.0 —— 撮影と編集について

怪獣映画の撮影と編集を評価できる視点がボクにはないのですが、IMAXレーザーの大画面で観たこともあり、その迫力を十分に感じることができました。加えて、ゴジラの放射熱線による被害の撮影と編集は心を痛くする迫力がありました。熱線と爆風により破壊される建物と人体。その暴力の後の静けさの中でもくもくと立ち上がる黒いキノコ雲。そして静寂のを破るように降り出す黒い雨。反核を祈らずにはいられない撮影と編集でした。

繰り返しますが、この凄惨な戦争と核兵器について人類はすでに学んでいるはずです。それでも、再びそれが繰り返されようとしています。だから、何度でも言わなければならない、伝えなければならないのが反戦・反核なんだと思います。その小さなひとつの手段として映画、それは必要なんだと思いました ( :

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この記事を書いた人

マーケティングに関わる仕事に20年以上携わっています。感銘を受けたポップカルチャーをマーケティング視点で記録したり、日々の暮らしや身に着けているもの、健康・投資について記録するためにブログを活用しています。

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