2010s(トゥエンティテンズ):第3章~スポティファイとライブ・ネイション―――民主化と寡占化|ポップ・カルチャーの底力とコンテンツの非力さのコントラスト

2010年代のポップカルチャーのメインストリームや、そこで起きた変化を解説する本「2010s」。1周目でチェックした部分を中心に、2周目を読み進めながら感想を記録していきます。

第3章の最後は「ポップ・カルチャー」の底力と、その中身たる「コンテンツ」の非力さというコントラストが語られています。ボクもどちらかというと仕事ではコンテンツ作りの方が好きで、システムやプラットフォームといった外殻を創る仕事には想像力とモチベーションが及ばないタイプです。コンテンツメーカーである、田中宗一郎(タナソー)さんと宇野維正さんの悲哀に共感しつつも悲しくなり、でも外側を創る努力をしないと。と奮起も促された話題でした。

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ストリーミング・サービスがもたらしがグローバル化

宇野 やはりストリーミング・サービスの普及による最大の効用というのは、どの国のアーティストにとっても海外への進出が身近になり、オーディエンスにとっても気軽にいろんな国、文化の音楽に触れられることになったということですよね。

田中 実際、これまでポップミュージックの主なマーケットは、アメリカ、ヨーロッパ、日本だったのが、南米やアジアにも一気に拡大することになった。この後、おそらく中国、インドという膨大な人口を抱えている場所に広がっていくだろうということ。

(中略)

宇野 単純に今だって普通に、アメリカのヒットチャートにスペイン語や韓国語の曲が入ってきてるわけですからね。自分の国にしか興味がないと思われてきたアメリカですらそうなんだから。そこにはグローバリズムのいい側面というのは確実にある。グローバリズムがローカリズムを殺すというのは、すごく雑な議論であるだけじゃなく、単純に間違っている。

田中 こうした2010年代の現象に触れて、どこかポップ・カルチャーの底力を見せつけられた気にもなってるんだよね。当時は懐疑的だったストリーミング・サービスに関する意識を変えたのはチャンス・ザ・ラッパーみたいな人たちの成し遂げたことを目撃したことが何よりも大きかったし、自分の中の技術楽観主義みたいなものを支えているのは、国という枠組を越えて、それぞれの国の人たちの文化が互いに出会い、交じり合いつつある現状を感じてきたことが何よりも大きいしね。

ポップ・カルチャーの底力って、いいですね。宇野さんの言うように、ときに文化や環境破壊の文脈で批判されるグローバリズムだけど、ボクはやっぱり国という枠組みを越えて交じり合おうよ。というベクトルは好きです。そして技術があれば、批判されるような物理的な移動を伴わずにグローバルに交流することは可能です。

著しく移動ができなくなっている今、COVID-19の世界においても、海外から今聴くべき音楽も、今観るべき映像作品も聴こえてくるし観ることができます。それはSpotifyやNetflixのようなストリーミング・サービスの力が大きいし、2010年代のはじめに一般化したSNSの力や、PCからPCをネットワークしたインターネットという技術がもたらしてくれています。2010年代にグローバリズムを加速させたのは技術であることは間違いないです。

田中 ミレニアム後の20年の間、ずっと見せつけられていたのは、巨大なシステムの既得権益にしがみつく産業側と、そんな風に産業側が作り上げた日本固有のバブルの中に暮らしていることに気付きもせず、すっかり時代に取り残されて、新しいものを受け入れられないどころか、その存在にさえ気付かなくなったオーディエンスとの共依存の構図でしょ。もう飽きたよ(笑)。ただ、この先どうなるんだろうね。スポティファイだって、実はそんなに儲かっていないという事実もあるし。

宇野 10年やってきて2018年に初めて黒字が出たんでしたっけ?

田中 そう。スポティファイが北米にローンチしたのが2011年。おそらく北米の音楽業界に対する説得材料として、メジャー・レーベルに一部株の譲渡もしていて、ようやく去年、株を上場させたことで、初めて黒字を計上した。IT企業にはありがちだけど、とにかくキャッシュフローだけでまわしてきたはず。

(中略)

宇野 でも、そう考えると、何か大変ですね、ビジネスって。

田中 (笑)。ただ、最近はあらためて、結局、ビジネスってBtoBでしかないよな、と思うようになってて。あとは国や行政相手ね。要するに株や資産を持っていない人間は、資本主義社会で暮らすメリットなんて1ミリもないのと同じ。我々みたいにコツコツとひたすらオーディエンス向けにコンテンツを作るなんて仕事は、世の中のビジネスの隆盛とはまったく関係ないからね。

(中略)

田中 だから、コンテンツとか言ってる時点でもはや我々なんて蚊帳の外でしょう。極端な話、システムさえ完成させれば、あとのコンテンツなんて外部にアウトソーシングすればいいわけだから。

宇野 そう考えると、我々のやってることなんて末端の末端。

田中 末端の末端の末端だよ。我々みたいに音楽だ映画だコンテンツだとか言ってるやつは全員負け組。

宇野 あまり言うと悲しくなるからやめてくださいよ(笑)

ボクも悲しくなりました。。前述の通り、自分の仕事においてもボクはコンテンツを作ることが好きで、システムやプラットフォームといった外殻を創る仕事には想像力とモチベーションが及ばないタイプです。そして、そのことで特に最近限界を感じていたりします。末端の末端の末端。。その言葉が頭の中をリフレインしています。

タナソーさんと宇野さんのお二人からこんな言葉が出てくるなんて、頭をガツンと殴られた感じです。コンテンツを作ることが好きという情熱は忘れずに、システムやプラットフォームを創るという視点に頭をシフトしていこうと思いました。権力者が作るシステムやプラットフォームではなく、コンテンツの力やコンテンツを作る一人ひとりの力を信じている人が考えるそれの方が愛すべき、よいインフラになると信じて、視点を変えて取り組もうと思った本章の締めくくりでした : )

「2010s」の感想は「2010s/トゥエンティテンズ」のタグでまとめていきます
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この記事を書いた人

マーケティングに関わる仕事に20年以上携わっています。感銘を受けたポップカルチャーをマーケティング視点で記録したり、日々の暮らしや身に着けているもの、健康・投資について記録するためにブログを活用しています。

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