2010年代のポップカルチャーのメインストリームや、そこで起きた変化を解説する本「2010s」。1周目でチェックした部分を中心に、2周目を読み進めながら感想を記録していきます。
第3章では2010年代の音楽業界の変化の中で、雑誌スヌーザーの廃刊の理由が編集長の田中宗一郎(タナソー)さんから語られます。これまでのブログでボクがずっとスヌーザー読者であったことを書いてきました。なので、この部分がボクの中での第3章のハイライトです。
田中宗一郎が雑誌をやめた理由
宇野 ところで、「スヌーザー」の最終号が出たのは2011年でしたよね?
田中 2011年の春。東日本大震災から2ヶ月後に発売した号が最後。97年5月にレディオヘッドのサードアルバム「OK Computer」のリリースに合わせて創刊して、3・11の年に終わった。最終号の表紙は5人になる前のくるりで、巻頭のコラムが「Goblin」をリリースするタイミングのタイラー・ザ・クリエイター。ジェイムス・ブレイクやボン・イヴェールのインタビューが載っている。
宇野 第1章でも話題にしましたけど、「レディー・ガガに勝てない日本のロック」という特集をしたのが、その前年の2010年ですよね。このコピーは二重にねじれていて、まずレディー・ガガは確かに広まったけど、ジャスティン・ビーバーと並んで日本の誰もが知っている最後の海外ポップスターとなってしまった。あと、ちょうどこの頃からまた日本の音楽シーンがちょっと面白くなってきた。
田中 その通りだね。「スヌーザー」が終わる前後には個人的にも大興奮することのできる日本音楽の新し流れが起こりつつあって。ひとつは、当時東京インディと呼ばれたcero、シャムキャッツ、王舟、ミツメ、森は生きている、そういったバンド群。もうひとつは、tomadくんがやっているネット・レーベル、Maltine周辺のプロデューサーやDJ。
宇野 そういう意味でも、まだ「スヌーザー」にはやれることがあったんじゃないですか?
スヌーザーの最終号のピンクの表紙。くるりが2人で語りかけてくる表紙をよく覚えています。あの頃は駅前の書店まで行って、2ヶ月に1回の発行される最新号を購入していました。スヌーザーの終わりのころの東京インディの空気感もよく覚えています。ボクの2010年代はこの辺りで止まったままだったので、シャムキャッツやceroは10年かけてずっとよく聴いていたバンドです。この頃にスヌーザーがフックアップしていた「andymori」や「ミイラズ」も同じく長い間よく聴いてきました。
本当にまだスヌーザーにはやれることがあったと思っています。
田中 飽きっぽいんだから仕方ないじゃん(笑)。でも、「レディー・ガガに勝てない日本のロック」特集号に関してはよく覚えてる。あの号の表紙はMGMTだったけど、本当はちょうど同じタイミングでセカンドアルバムをリリースしたヴァンパイア・ウィークエンドをどうしても表紙にしたかったんですよ。でも、できなかった。それには理由があってさ。
宇野 MGMTはソニーだったけど、ヴァンパイア・ウィークエンドはホステスという新参のレーベルだった。
田中 いや、厳密なことを言うと、ホステスはレーベルじゃないんですよ。国内ディストリビューションを持たない輸入盤のディストリビューターなの。少なくとも最初期はそうだった。
(中略)
宇野 何となく理解はできますけど、読者にはちょっと伝わらないかもしれない。すごくややこしい。
田中 そう。でも、そのややこしいところがホステスの新しさだった。彼らっていろんな形で日本の洋楽業界の慣例をひっくり返した会社だったんですよ。欧米の業界の構造変化を理解していて、彼らなりのスタイルで日本独自の因習を無理やり壊していった。ただ、俺みたいな媒体の人間としては一緒に仕事をするのが本当に大変だった。
MGMTの表紙もよく覚えているし、ヴァンパイア・ウィークエンドへの熱狂もよく覚えているから、なるほど表紙やインタビューを巡る裏話やホステスの立ち位置や改革を知ることができて10年越しに腹落ちしています。「レディー・ガガに勝てない日本のロック」特集もとても印象深く、前述した東京インディのバンドに加えて、「毛皮のマリーズ」や「HiGE」「ボウディーズ」「シガベッツ」など、“勝てない”なんて発破を掛けつつ、ボクらが10年聴ける日本の音楽をしっかり紹介してくれていました。
田中 発想としてはどれも新しかったとは思うんだけどね。だから、彼らの存在は当時の悩みの種だった。それ以外でも、とにかく「スヌーザー」の最後の1年間って作るのが大変だったんですよ。雑誌の志向性と、音楽業界からの期待がすれ違うようになって。この時期の自分の興味の対象は、ひとつはUSインディ。
宇野 一部の音楽リスナー以外はわかりにくいところですが、海外では「インディ」ってバンドの音楽性を表すジャンル名になっていて、実際にはメジャー・レーベルに所属しているバンドも含むわけですよね。
田中 そう。ジャンルとしてのインディ。で、その大半の美味しいところをホステスが持っていた。
宇野 泣かないで下さいよ(笑)
スヌーザーの廃刊の理由のひとつは、当時タナソーさんの興味が向いていたUSインディのバンドへのアクセスがホステスを通すことで狭き道になってしまったことでした。スヌーザーはインタビューの内容はもちろんですが、表紙やインタビューに使われるアーティスト写真やレイアウトも美しく、仕事で作る企画書やWebサイトのインスパイア元にさせてもらったりしていました。
そういう表紙を作るのにも、アーティスト写真を撮るのにも苦労をする環境が2010年代にやってきたのです。それこそ、業界の因習を破壊しイノベーションを起こし続けるのがスヌーザーだと思っていましたが、音楽業界の新しいウネリはオルタナティブなスヌーザーにも厳しい環境になってしまったのですね。
田中 と同時に、もはや自分たちのテイストと興味は、リアーナゆあテイラー・スウィフトといったポップに向かっていた時期でもあって。
宇野 つまり、自分たちの関心に忠実なまま、本も作りたいし、海外のトレンドにも乗りたかった。でも、そういう方向性と、日本のレーベルからの期待がかみ合わなくなった?
田中 いくらテイラー・スウィフトをやりたいと言っても、「いやいや、『スヌーザー』さんは違うでしょ。U2やって下さいよ」みたいなことになるわけ。例えば、2008年10月号の表紙はダフィなんだけど、覚えてる?
宇野 ポスト・エイミー・ワインハウスとして出てきましたけど、結局アデルにすべてを持って行かれた感じでしたね。
田中 で、アデルのレーベルはベガーズ・バンケットだった。
宇野 つまり、日本だとホステスだから、当然やれない?
田中 だから、ダフィを表紙にしたのはアデルがやれなかった雪辱戦のようなところもあった。彼女を表紙にすることで、自分たちの興味と関心が彼女たちフィメール・シンガーに向いているという態度を示したかった。
スヌーザーやめたもうひとつの理由ですね。フィメール・ポップをフックアップしたくても、レーベルとの間に、それから読者との間にも微妙なズレがあった。ということですが、でもボクはダフィの表紙はめっちゃかっちょいいと思ってました。ちゃんとダフィも聴いたし。この後の対談で出てきた「ケイジャン・ダンス・パーティ」も「クラクソンズ」も、スヌーザーで知ってキラキラとしたデビュー作を聴いて、これから彼らの成長とキャリアを横で見続けていくんだ。と心躍らせたりもしました。
スヌーザーのインタビューやレビュー、写真には、そしてそれを雑誌というフォーマットを通して伝えていたことは、そんなアーティストとリスナーとの絆をつなぐパワーを生んでいたと思っています。だからさ、何度も言うけど廃刊はすごく悲しい出来事でした。でも、今回その裏側の苦労や理由をこの2010sでちょっとだけでも触れることができたのは、とても貴重でした。で、改めて思わずにいられないのですが、雑誌というフォーマットでもう一度やって欲しいということ : )
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